1−3.イオンビーム蒸着技術
1−3−1.イオンビーム蒸着技術の歴史
イオン化した物質を自己スパッタ収率が1以下のエネルギーで基板上に入射させることにより、イオン自体を堆積させ成膜することが可能であることは古くから知られており、1960年代よりいくつかのイオンビーム蒸着(Ion
Beam Deposition:IBD)の試みがなされてきた66)。特にイオンビームの持つエネルギーの効果は、熱平衡状態では出来ないような構造の物質創成、あるいは低温におけるエピタキシャル成膜への夢をかき立てるものであった。1971年にAisenberg等がイオンビーム蒸着によりダイヤモンドに近い特性を持つ炭素(Diamond
Like Carbon:DLC)膜を成膜したとの報告67)をおこなってから、独特な特長を持つ一つの成膜方法として知られるようになった。当初は質量分離器のない装置で実験が始まったが、すぐに質量分離器を備えた装置が主流になる。1970年代より1980年代はじめにかけて、数カ所の研究機関においてDLC、金属膜および半導体のイオンビーム蒸着の研究がおこなわれてきた。しかし、それらは基礎的な研究を超えて世の中に実用的な成膜法をもたらすには至らなかった。それにはいくつか原因が考えられるが、最も重大なものは当時の真空技術にあったものと思われる。イオンビーム蒸着においてイオンビームの線束密度に対する残留ガスが成膜中の基板表面に入射する線束密度の比を大きくとることが純度の良い成膜をおこなうために必要な条件であるが、当時の実験条件ではその比(ガスの線束密度/イオンの線束密度)が0.1以下になることはまれであったと思われる。
その後、1980年代に飛躍的に発達した超高真空技術を用い、超高真空雰囲気におけるイオンビーム蒸着の研究が1980年代なかばより米国と日本において始まり、実用化をめざした研究が続けられている。
この節で述べる正イオンによる狭義のイオンビーム蒸着の他、負イオンを用いるイオンビーム蒸着、イオンビームと真空蒸着を組み合わせイオンビームを補助的に用いるイオンビームアシスト蒸着、プラズマ領域内で直接イオンを成膜に利用するイオンプレーティング等いくつかのイオンビームを用いる成膜手法が研究されており、その中には実用的な手法としてすでに産業的に用いられているものも存在する。それらの手法に関する議論は、本論文の主題に直接かかわらないため、おこなわない。
1−3−2.イオンビーム蒸着の原理と装置
(1)イオンビーム蒸着の原理と特長
イオンビームと物質との相互作用は、イオンビームのエネルギーによりいくつかの領域に分類することができる。エネルギーの低い方からいえば、蒸着領域、スパッタ領域、イオン注入領域、核反応領域である。蒸着領域は、セルフスパッタ収率が1より小さいエネルギー領域において定義される。セルフスパッタ収率が1になるエネルギーを臨界エネルギーと呼ぶことにすれば、臨界エネルギーはほとんどの元素に対しておよそ200eVから1keV程度である。イオンビーム蒸着はイオンビームのエネルギーを臨界エネルギー以下にして基板表面に入射させ、その上に堆積させるものである。
イオンビーム蒸着の特長は、イオンの化学的な活性、制御性、およびエネルギーの効果の3点で表すことができる。イオン自体が、中性原子と比べて電離にかかわるエネルギーを持つ化学的にも活性な存在である。また、イオンビームは電磁的な制御や精密な計測が容易であるので、基板上に到達した量(通常電荷の積算値、すなわちビーム電流と時間の積であらわされこれから膜厚を評価することができる)の制御とかエネルギーの制御を直接的かつ精密におこなうことができる。イオンエネルギーの成膜におよぼす効果は、現状では必ずしも明らかになっているとはいえないが、準安定状態の物質の成膜であるとか低温におけるエピタキシャル成膜に代表されるような結晶構造の制御、残留ガスの付着に対するクリーニング効果、基板に対する付着力の向上、および残留応力の低減等が期待され、あるいは部分的に確認されてきている。このように他の成膜方法と比べてきわめて特異的な成膜手段である。
(2)イオンビーム蒸着装置
イオンビーム蒸着のための装置には、質量分離器を持つものと持たないものがある。前項で述べたように、非質量分離型イオンビーム蒸着装置から始まり、質量分離型イオンビーム蒸着装置、超高真空質量分離型イオンビーム蒸着装置というおおまかな変遷をたどっているようである。非質量分離型イオンビーム蒸着装置においては、イオン源から引き出されたイオン種は多価イオン、分子イオン、中性原子等をも含めすべて基板上に入射するため、装置構成は簡単であるが制御性は質量分離型イオンビーム蒸着装置と比べて劣る。これに対して質量分離型あるいは超高真空質量分離型のイオンビーム蒸着装置では、イオン源から引き出されたビームを質量分離し、イオン種の選別をおこなうために、基板上に到達するイオン種は1種類のみであり、精密な制御が可能である。図1−5に超高真空質量分離型イオンビーム蒸着装置71)の構成例を示す。イオン源には接地電位に対してイオン加速電位(50〜100V)相当の電位が加えられている。イオン源より引き出し電位(−20keV)によりイオンビームを引き出す。引き出してから成膜用基板直前まで、ビームダクトには接地電位に対して引き出し電位が引加されている。引き出されたイオンビームは、扇型分離電磁石により質量分離された後、接地電位である基板直前で減速され、最終エネルギーはイオン加速電位相当になる。
図1−5.超高真空質量分離型イオンビーム蒸着装置例71)
1−3−3.DLC、金属、半導体の成膜
(1)イオンビーム蒸着によるDLCの成膜
イオンビーム蒸着を用いたDLCの成膜は、Aisenberg等が非質量分離型イオンビーム蒸着装置を用いて成膜した報告67)に始まる。彼らは、イオン源に対して−40Vのバイアスを持つSi、ステンレス鋼の基板を用いて成膜し、最表面のアモルファス状の層の下に1011Ωcmの高抵抗率を持ち、透明で硬度が大きい等、ダイヤモンドに近い層ができていることを確認した。その後、2、3の研究機関において追試がおこなわれ、質量分離型イオンビーム蒸着装置を用いた場合でも似たような特性が確認されている。しかし、厳密に見ると抵抗率だけでも106Ωcmから1012Ωcmまでばらついており、また、最適とされるC+イオンのエネルギーも40eVとされているものから900eVとされているものまであり、現象は必ずしも明らかにはされなかった。
その後Ohno等は、超高真空イオンビーム蒸着装置を用いて10〜100eVのC+イオンビームによる成膜を報告している68)。電流密度は2×10−2A/m2(2μA/cm2)、蒸着中の真空度は4×10−7Pa(ガスとイオンの線束密度の比は0.12である)、基板はSi(111)で室温において成膜する。エネルギーが10eVの場合にははじめSi上にSiCが成長し、その後多結晶のグラファイトが成長するのに対し、エネルギーが100eVの場合には、はじめ基板表面のSiとの混合層形成によりアモルファス状のSiCができ、その後再結晶化がおこりダイヤモンドにきわめて近い薄膜が形成されたと報告している。
(2)イオンビーム蒸着による金属の成膜
イオンビーム蒸着による金属薄膜の成膜は、クロムを成膜した初期(1965年)の報告66)からしばらく後(1976年)に、Amano等が、E×B型の質量分離器を持つイオンビーム蒸着装置を用いた鉛、マグネシウムの成膜を報告している69、70)。彼らは質量分離した24〜200eVのPb+イオンビームをC、NaCl基板上に照射し、鉛の成膜をおこなった。付着力はエネルギーには依存しないが、膜厚、表面被覆度等はエネルギーに依存する、最適なエネルギーは装置上の問題と蒸着速度より50eVであるなどの結果を得ている。また、質量分離した24〜500eVのMg+イオンをC基板上に照射し、マグネシウムの成膜をおこない、付着力はエネルギーが高いほど大きい、最適エネルギーは100eVであるとの結論を得ている。
1990年代に入ってから、超高真空イオンビーム蒸着装置を用いた鉄の成膜がMiyake等により報告されている71、72)。エネルギー50〜100eV、電流密度1A/m2(100μA/cm2)のFe+イオンを、8×10−6Pa(ガスとイオンの線束密度比は0.047となる)の真空中で、室温のSi(100)および(111)基板上に成膜した。その結果、耐腐食性に優れた、いわゆるさびない鉄ができたと報告している。しかも100eVで成膜したものは、市販の高純度鉄程度の耐腐食性であるのに対して、50eVで成膜したものはそれよりも2桁耐腐食性に優れている。両者の構造を比較すると、両者とも優先配向しているが、100eVにおける成膜では柱状結晶構造であり最表面はアモルファス状の酸化層でおおわれているのに対し、50eV成膜では界面のアモルファス層、単結晶に近い層、酸化物層がきれいな微細粒子の積層構造を示しており、最表面の酸化物層の規則性の差が耐腐食性の差をもたらしたと推定している。
Shimizu等も同じ時期に、超高真空イオンビーム蒸着装置を用いて鉄の成膜を報告している73)。エネルギーが10〜100eV、電流密度0.4〜1A/m2(40〜100μA/cm2)のFe+イオンを、4×10−8Pa(ガスとイオンの線束密度比は2.4×10−4程度となる)の真空中で、室温の表面酸化膜を持ったままのSi(111)、Si(100)基板上に成膜している。それらの実験の結果、表面酸化膜を持ったままのSi基板への成膜では、10eVでは酸化膜がそのまま残り単結晶にはならない、20eVと50eVでは酸化膜が部分的に除去され(111)基板ではSiとの界面から単結晶が成長しているが(100)基板では多結晶になる、100eVでは酸化層は除去され(111)基板では単結晶が成長するがSi基板自体に欠陥が導入されている等を報告している。
(3)イオンビーム蒸着による半導体の成膜
イオンビーム蒸着を半導体の成膜に用いる試みはYagi等によって1970年代の半ばに始められた74)。彼らは質量分離したイオンビーム蒸着装置を用い、エネルギー100eV、電流密度4〜5×10−2A/m2(4〜5μA/cm2)のSi+、Ge+ビームをSi(111)およびGe(111)基板上に照射して、エピタキシャル成長を試みた。Geの場合には、基板温度が300℃以上のときに両基板に対してエピタキシャル成長を認めたが、200℃以下ではアモルファス、Siの場合には蒸着後に1200℃でアニールしてもアモルファスであり、この原因は装置の真空度が悪い(1×10−3Pa、このときガスとイオンの線束密度比は160となりガスの方が大きい)ためであると報告している。彼らは、真空度を改良した装置(7×10−6Pa、これでガスとイオンの線束密度比は0.79)を用いて200eVのSi+ビームでホモエピタキシャル成長を再び試みたが、室温における成膜ではアモルファス、基板温度が740℃でようやくエピタキシャル成長が認められたが欠陥が多く実用的なものではないと報告している75)。
超高真空イオンビーム蒸着をもちいた成膜は、前述したYagi等に引き続き、Zalm等がSiのGe基板およびSi基板上への成膜について報告している76)。彼らは、エネルギー50eV、電流密度約0.4A/m2(40μA/cm2)のSi+ビームを、1×10−7Paの真空中で(ガスとイオンの線束密度比は2.0×10−3)、130℃に加熱した清浄処理済みのGe(100)、Si(100)および(111)基板に照射した。その結果、室温では単結晶にはならないが、基板温度130℃で単結晶が成膜できること、基板表面が汚染されていたりビーム中に10%程度のCO+またはN2+が混入すると(これらの分子イオンの質量/電荷はSi+とほぼ同じなので質量分離器により分離できない)単結晶にならないことなどを報告している。
その後、Appleton等が超高真空イオンビーム蒸着をもちいた半導体成膜について報告している77)。彼らは、エネルギーが10〜200eV、電流密度0.01〜0.5A/m2(1〜50μA/cm2)の30Si+、74Ge+ビームを、10−7Pa台前半の真空中で(ガスとイオンの比は0.01〜0.1程度となる)、基板温度30〜630℃のSi(100)基板、Ge(100)基板に対して照射した。その結果、清浄表面処理のなされた基板を用いた場合には10〜40eV、基板温度430℃付近でエピタキシャル成膜がSi、Geともできること、清浄表面処理(酸化層の除去)がなされていないと室温でSi、Geともアモルファスに、430℃、630℃で多結晶になること、室温ではイオンエネルギーが150〜200eVになると30nmくらいの幅で基板に欠陥が生じること、基板温度が430℃以上では、イオンエネルギーが20eVであったとしても深さ50〜150nmの範囲で欠陥が生じることなどを報告している。
また、彼等は同じ装置を用いてGaAsをSiまたはGe基板上に成膜した報告もしている78)。イオン源よりGa+ビームとAs+ビームを同時に引き出しておき、質量分離器によりそれらを切り替えながら、それぞれをおよそ単原子層ずつ成膜する手法である。エネルギー30〜40eVのGa+ビームとAs+ビームを、充分な清浄表面処理のなされた430℃に加熱したSi(100)、Ge(100)基板上に交互に照射した結果、どちらの基板においてもGaAsがエピタキシャル成膜すること、Si基板においては基板に150nmくらいの厚みで欠陥が生じること、Ge基板では欠陥が少ないことなどを報告している。